看護師が体験した病院のオープニング求人から死ぬまでの話

病院の死
みなさんは病院に寿命があることを知っていますか?

病院は死にます。
もちろんそうじゃない病院もあります。延命に延命を重ね、色んな細工をしながらもボロボロのツギハギ状態で存在しています。

でもまともな病院はいずれ死にます。
これは悲惨な話ではなく、日本の医療の限界であり、自然な結末です。

こういった話は、経営者やドクター目線でたまに聞くことができますが、看護師目線の話は今までに聞いたことがありません。

そこで「末端の医療従事者の目線」で「病院が産まれてから死ぬまで」の話を書いてみることにしました。
医療に関わる方々に読んでいただければ幸いです。

病院が産まれたとき

私がまだ看護師3年目で20代だった頃。

とある地方都市のオープニングスタッフ求人を見つけた。
80床ほどの小規模な病院。

応募してからはスルスルと話が進み、1か月後には病院の隣に併設された寮に入居していた。
職場は物がまだ何も置かれておらず、どこもガラガラだった。建物と棚だけのまっさらな状態。

開院までの1か月は、準備でてんやわんやだった。
段ボールに入った備品を取り出し、管理番号のシール一つ一つ丁寧に張り、棚に並べていく。
新しい医療機器がドンドン運び込まれ、業者の説明会には数えきれないくらい出席した。無機質な分厚いマニュアルを何度も読んだ。

開院1週間前には、内覧会があり、模擬演習も始まった。
人手が足りず、まだ若かった私までもが地域内の町内会や老人会へのあいさつ回りに行かされた。

休みもなく、定時もなく、朝も夜も働きづめだったけど、初めてのことばかりで楽しい時期だった。
医師も看護師も療法士も事務員もみんな一丸となっている連帯感が心地よかったのかもしれない。

一年目

オープン当初は内科、消化器科、外科、リハビリテーションの4つの診療科でスタートした。

初めは外科が繁盛した。
地域に外科が不足気味していたため、想定通りでもあった。

ただし外科には問題もあった。
治ったらサヨナラの世界であり、患者が継続的に来院しない。
病院の経営は不安定だった。

それでも1年目はみんなが必死で頑張り、外科を中心にそれなりに繁盛したと思う。

二年目

外科に集まった患者をリハビリテーションに流すようにした。
リハビリテーションは、点数が高く儲かる診療科だった。しかも外科と違って継続的に来院してくれる。
さらに当時は医療機器を使った物理療法の点数が高めだったこともあり、病院の経営が一気に安定した。

三年目

小児科を開設した。
小児科は、今も昔も儲からない。
それでも開設したのは、小児科が病院の評判を上げてくれると見込んでのことだった。
それが見事に的中し、新しい病院で若い医師をそろえた小児科は、地域のお母さんたちのネットワークであっという間に話題になった(当時はSNSがなくリアル口コミで広がった)
病院に来る患者は、年寄りだけじゃなく、若い人たちも増えた。

さらに当時はまだ珍しかったスポーツ障害専門のリハビリチームも作った。
若いスポーツ選手が集まるリハビリセンターは、看護師の人気も高かった(結婚が何組もあった)

若い患者さん、若いスタッフが集まれば病院がさらに活気づき、医師や看護師、薬剤師、技師、療法士などのスタッフが一気に集まってきた。

五年目

院長の念願でもあった1次救急を始めた。
交通事故の患者を乗せた救急車が毎日くるようになり、病院はさらに活気づく。
休日夜間急患センターと小児初期救急センターにも指定された。
優秀な医者が集まるようになり、高度な医療ができるようになり、2次救急をたらい回しにされた重症度の高い患者さんも受け入れられるようになった。

十年目

病院は、リハビリ棟、クリニック棟、入院棟を増設。
皮膚科、泌尿器科、眼科、耳鼻科、心療内科、歯科といった診療科が増えていた。
CT、MRI、RIなど大型の最新機器も導入した。
地域中核災害医療センターに指定され、名実ともに地域の基幹病院になった。

病院の絶頂期。

十五年目

この頃から少しずつおかしくなっていった。

まず問題になったのが大量発生した高齢者だった。
市の「移住政策&老人ホーム誘致」の結果、地域には高齢者が溢れていた。
「病院の隣」をキーワードにして集客した有料老人ホームから、毎日のように患者がやってきた。
しかも老人ホームの常駐医が帰宅した夜間ばかり。
「熱が出ている」「咳が出ている」「発疹が出ている」
そんな些細なことで夜間受診し、「心配だから1日入院させてほしい」と懇願してくる。

さらに追い打ちをかけたのが地域のモラル低下による24時間コンビニ受診。
「肩が痛い」「夜ならすぐに診てもらえる」「頭痛薬がほしい」「眠れないから睡眠薬がほしい」「昼は仕事だから夜に」
こんなどうしようもない理由の夜間受診が本当に増えた。

この頃は二次救急に指定されていたが、重症の急患を受け入れる余裕がなく、その役目を全く果たせていなかった。
医者も看護師も消耗していた。

二十年目

救急が完全に崩壊した。
その結果、救急の子供が来ても1時間以上待つのが当たり前になり、お母さんネットワークで悪評が一気に広まった(この頃はSNSで口コミが広がった)

評判の悪い病院は、患者も集まらないが、スタッフも集まらない。
しかも悪いことは重なり、ちょうど「7対1看護」が始まった時期でもあり、看護師の確保がとにかく大変だった。

10対1を守るので精一杯。

その一方で周りの病院は7対1をとっていた。
ただその実情は「イカサマ高度急性期病院」ばかり。
重症患者はいつもうちに流れてきた。

重症患者を受け入れず、高度急性期のかけらもない病院が、7対1。
地域のためにと長年にわたり救急患者を受け入れてきた病院が、10対1。
看護師の数をそろえるだけの、マネーゲーム化した制度に何の意味があるのか。

国はその対策として「24時間救急またはICUが無ければ7対1を認めない」とした。
でも抜け道が多く、在宅復帰率や重症度をコントロールすればどうにでも操作できてしまう。

結局、救急を閉鎖した。
不採算だった小児科、皮膚科、泌尿器科、耳鼻科、心療内科、歯科も閉鎖した。
かつての稼ぎ頭だったリハビリテーションは、国の政策で診療報酬を一気に削られ、閉鎖こそ免れたものの、リハビリ棟が廃館となり、規模を縮小し一般病棟に併設となった。
若くて優秀な多くのスタッフが去った。
繁栄した当時の面影は見る影もない。

こうして病院は死んだ。

地域の基幹病院であっても国の政策が変われば、死んでいく。
まじめにやっている病院ほど追い込まれ、死んでいく。
スタッフの努力も虚しく、死んでいく。

国の医療政策は2年ごとに見直され、そのたびに二転三転している。

その変化に着いていけるよう、病院も変化しなければいけない。
そのためには大きな病院よりも、小回りの利く病院がいい。
実際に最近開院するのは、小さな病院ばかりだ。

そういった小さな病院が求められる時代なのかもしれない。

でも、
大きな病院でしか助からない患者が一定数いる。
大きな病院でしか継承できない看護スキルがある。

それでも病院は死んでいく。

これが看護師の私が体験した、とある病院のオープニング求人から死ぬまでの話である。

こんな記事も参考にどうぞ。

看護師が転職で失敗しないための準備マニュアル
大損してた!看護師が知っておきたい残業代のこと
看護師を辞めるのはちょっと待ってください!